藤田水産「渡海屋」初代 藤田源治
明治45年(1912)に愛媛県から新しい漁法として、初代の藤田源治により小型の定置網3統を天神の磯に張り込みましたが、その頃の定置網はいたって幼稚なものであった。しかしたゆまざる努力と研究、苦難の体験を続けた結果、仁尾町地先の全面的な免許を受け、漁法の確立がなされた。その後、藤田傳三郎、藤田金三郎と代々受け継ぎ、藤田勝太郎の代で小売りや加工品に力を入れるようになりました。
藤田水産「渡海屋」昔の写真集
鰯を運搬船に積み込みます。
港からフィッシュポンプで加工場に鰯を運びます。
ボイル釜でセイロに入れられた鰯を茹でます。
茹であがった鰯を台車に収めていきます。多い日にはこの台車を170台位使います。藤田水産の場合は台車1台でセイロ60枚です。
茹であがった鰯を乾燥室に運びます。地面に磁気テープを埋め込んでいて台車をつなぐと自動的に運んでくれます。
昭和50年代の藤田水産のいりこ漁の船団
運搬船の後ろに昭和56年3月から約2年7か月間かいさいされた。「仁尾太陽博」のタワーが見えます。
仁尾太陽博とはサンシャイン計画で仁尾町に太陽熱発電設備が開設されたことを記念にして開催されました。
当時は世界初の太陽熱発電設備として注目されていました。
定期的に浮き側のロープと網、重り側のロープを決められた間隔に仕立て直します。こうする事で網を海に入れた時に網がきれいに広がるようになります。
加工場がまだ仁尾町の無人島、小蔦島にあった頃の写真です。
奥に見えるのが鰯をゆでる工場と手前がゆでた鰯を乾かす干し場です。
当時はゆでた鰯をむしろの上に広げて天日で乾燥させていました。
現在は生い茂る草木の中建物の骨組みだけが残っています。